中国の歴史話-第8回中国の歴史・文化

ポケットフジ / 2020-03-25 / Hit数:

“炎黄子孫”という呼び名の由来は?


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传说在四千多年以前,中国长江流域和黄河流域,居住着许多氏族部落,其中最著名的是黄帝部落、炎帝部落和蚩尤部落。这三个部落在相互交往的过程中,发生过数次大的战争。

 

伝説により、四千年前の中国長江流域と黄河流域には、たくさんの集落が存在し、その中でもっとも有名なのは黄帝、炎帝と蚩尤(しゆう)が統率する三つの部族です。そしてお互いの間では幾度も戦争が起こった。

 

炎帝部落进入黄河中游以后,与蚩尤部落发生了长期的冲突。炎帝被蚩尤打败以后,投靠黄帝部落。两个部落联合起来,与蚩尤在涿鹿大战一场,蚩尤战败,被黄帝部落杀死,黄帝取得了胜利。这就是史书上有名的“涿鹿之战”。

 

炎帝の部族は黄河中流に侵入した以来、蚩尤の部族と長期にわたっ」突が続いていた。結局炎帝が敗れ、黄帝に降伏した。二つの部族が合併され、蚩尤と「涿鹿」で大戦を繰り広げ、最後は蚩尤の戦死で幕を閉じた。それは歴史上有名な「涿鹿」の戦い。

 

黄帝对蚩尤部落成员采取安抚政策,留在北方的蚩尤部落成员就加入了炎黄部落。其他部落也对黄帝佩服得五体投地,大家共同拥戴他为天子,黄帝就在涿鹿建都。

 

黄帝蚩尤の部族をいたわり、北方に残った残部も黄帝に降伏した。他の部族もその威光に感服し、一緒に天子として推戴して、黄帝は国都を「涿鹿」に定めた。

 

此时,炎帝部落也要争做霸主,与黄帝部落又发生了大规模冲突。炎帝和黄帝在阪泉又大战一场,结果炎帝被打败,归服了黄帝部落。

 

時を同じくして、炎帝も覇権を狙い、黄帝と再度大規模な戦争を起こし、「阪泉」はその戦場だった。最後はまた黄帝の勝利で終わり、炎帝の部族を完全に帰順させた。

 

后来,他们的后裔进入黄河流域,定居中原。经过长期的共同生活,共同繁衍,互相融合。由于黄帝部落的力量比较强大,文化也比较高,原始社会劳动人民的许多发明创造都记在黄帝的名下,黄帝成为中原文化的代表。

 

その後、黄帝と炎帝の後裔は黄河流域に入り、中原地域に定住した。長い間での共同生活で、子孫たちが繁栄し、融合した。黄帝は強大な影響力を持っているから、原始社会での発明品の多くは黄帝の名で記録され、黄帝も中原文化の代表となった。

 

以后这一部族逐渐发展,居住在中原地区原来不同祖先的居民,都自认为是黄帝的子孙。并以华夏族自称,到汉朝以后称为汉族。后世的汉族人就把黄帝尊称为自己的祖先,自称是“炎黄子孙”。

 

黄帝部族の発展は、中原地域に住む他部族にも深い影響を及ぼす。その住民たちは自分が黄帝の子孫だから、華夏族と自称ようになった。漢のあと、その呼び名は漢族となり、さらにその後世は黄帝を祖先と仰ぎ、炎黄子孫と自称するようになった。


    我们的征途是星辰大海。以梦为马,不负韶华。




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